かく語りき

こう語った
よりも
かく語りき
と文語で書かれている方が格式高く心地良く感じられるような、ほんのひとかけらの違いに翻弄されるような生き方をしている。正に「枝葉末節にとらわれて大局を見失う」の状態である。
もちろん「かく語りき」がどうとか、「こう語った」という訳がよくないとかそういうことではない。本当に大事なのはツァラトゥストラが何を語ったかということだ。口を閉ざすことも「何を語るか」という本質的問いにおいては重要な役割を持ち、そして再度山を下るその姿にこそ「何を語るか」という問いに対する答えが示されているのだ。

さておき、目先の細かなことにとらわれがちであるということ。大切なお誘いをいただいたので心を込めてお返事しよう。とても嬉しいことだ。内容重視でいきます。